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コンプラ瓶で思いを馳せた   長崎出島和蘭商館跡

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9月19日、日曜日。
午後1時。

山門青年会議所OBの旅行の途中。
長崎新地の中華街での食事後、
長崎「出島」にやってきました。

正式には「出島和蘭商館跡」。

メインゲートの水門で
門番さんと記念撮影。

とても暑い日で、
汗がしたたり落ち始めます。







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これは、
長崎「出島」の
ミニチュア。

















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「出島」は、
明治時代に埋め立てが進み、
今では、その姿を
消してしまっています。

最近になって、
「出島」の歴史的価値が見直され、
復元事業が進んでいます。

昔、来たときよりも
建物がたくさん復元されていて、
資料もとても充実。







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昔、ポルトガル人が
住んでいた頃の建物が
復元されていて、
これは、当時の
会食の様子。

畳敷きの上で、
靴を履いていたそうで、
半年に一回、
畳替えをしていたそうです。











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これは、当時の
グラスやワイン瓶。

出島の復元作業と同時に
沢山の調度品が
発掘されています。
















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これは、コンプラ瓶。
ポルトガル語で「コンプラドール」とは、
仲買人のこと。
この日本の仲買人達が、
日本の醤油とお酒を詰めて
輸出をしていました。

幕末には、焼物の里、波佐見で
年間40万本も
生産されていたそうです。

写真のZAKYとは、
「サケ」のこと。
JAPANSCHZAKY
(ジャパネスクザキー)とあります。







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日本酒が、出島から
海外へ1800年には、
輸出されていたと考えると
なんともすごい。

さて、実は、菊美人のある「瀬高町」は
福岡でも有数の酒造りの盛んなところ。
明治時代は30軒ほどの酒蔵がありました。

写真は長崎県の地図。
星印が、菊美人の酒蔵のある「瀬高」。
日本酒を酒樽に詰め、船で矢部川を下り、
有明海に出ると対岸は、雲仙。
陸路では、とても長崎は遠いのですが、
海路では、長崎はすぐそこです。







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雲仙、長崎、遠くは五島列島まで
瀬高の酒が流通していました。

明治時代、
瀬高の酒の一大消費地は、
長崎だったのは有名な話です。

幕末から明治時代、菊美人も
長崎市袋町に菊美人を専売する
商社をもっていました。
先代(祖父)は、ここに下宿し、
長崎高等商業学校(長崎大学
経済学部の前身)に通いました。






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長崎、丸山の遊郭でも、
瀬高の酒は相当飲まれています。
坂本龍馬などの幕末の志士も、
瀬高のお酒を飲んでいました。

果たして、コンプラ瓶に
詰められて海を越えたお酒は
何だったのでしょうか。
もしかすると瀬高の酒かも、
或いは菊美人かもしれません。

いつか調べてみたい、
ロマンのある興味が湧く話です。



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